嵯峨・嵐山地区
1.長慶天皇 嵯峨東陵
(ちょうけいてんのうさがひがしのみささぎ)
南北朝時代の第九十八代、南朝第三代の長慶天皇の御陵で、隣には皇子の承朝王の墓が並んでいます。
この陵は整備が行き届いていて、いつもたいへん美しく保たれています。周囲を民家に囲まれていますが中は全くの別世界です。人の出入りも少なく非常に静かで、メジロやキビタキといった野鳥が多数見られます。
2.安倍晴明公嵯峨墓所
(あべのせいめいこうさがぼしょ)
安倍晴明公嵯峨墓所は、住宅に囲まれてひっそりと佇んでいます。安倍晴明といえば有名な陰陽師ですが、没後 松原橋、三条大橋、東福寺と流転をくりかえし、嵯峨の地に落ち着いたようです。
ガイドブックや地図にはほとんど載っておらず、あまり知られていませんが、ファン?の供花は絶えず いつも新しい花が供えられています。毎年命日の9月26日には「嵯峨墓所祭」が行われています。
3.大井神社
(おおいじんじゃ)
嵯峨嵐山 渡月橋の北詰にひっそりと佇む小さな神社。祭神は倉稲魂神(うがのみたまのかみ)。
神名帳によれば 貞観一八年 時の豪族泰氏が大堰川を修したときに治水の神として祀った神社である。現在では商売の神様として 嵐山商店街の信仰を集めている。以前は松尾大社の摂社であつたが 現在は野宮神社の末社となっている。
4.櫟谷宗像神社
(いちたにむながたじんじゃ)
嵯峨嵐山「渡月橋」の南「渡月小橋」詰めにある神社。 祭神は奥津嶋姫命(おきつしまひめのみこと)市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)のニ神が併祀されている。
奥津嶋姫命が海運の女神である事から水難の守護神として知られている。また貞観十ニ年に葛野に作られた造幣局から新銭が奉納された事から福徳財宝の神として毎年 新券が奉納されている。最近では「お金で縁結び」として若い女性の人気がある。
現在は松尾大社の摂社である。
5.大悲閣(千光寺)
(だいひかく(せんこうじ))
渡月橋から大堰川の右岸を西に登った山の中腹にある禅宗寺院。
大堰川 富士川 天竜川 高瀬川 等の河川開発工事を行い 豊臣秀吉や徳川家康から朱印状の許可を得て 大々的に海外貿易を行った「 角倉了以」の菩提寺である。了以が河川開盤工事に協力した人々の菩薩を弔うため創建した。
了以はこの大悲閣に隠遁し 晩年を過ごしたと云われている。
仏堂に安置されている 唯一 現存す了以の像は 法衣を纏つたうえに 石割斧を持つ開拓者の姿で 眼光鋭く 太網の上に座している。
また了以の子「素庵」は儒学者 芸術家として活躍し 嵯峨本の製作者として有名である。さらに角倉一族のひとりである「吉田光良由」は算術書 塵劫記の著書を編纂し数字 理系の道を開いた功労者である。松尾芭蕉もこの地を訪れていて「花の山 ニ町のぼれぱ 大悲閣」の句を残している。
6.法輪寺
(ほうりんじ)
和銅六年(713) 元明天皇の命により真言密教の僧「行碁」が創建した寺。弘法大師空海の弟子「道昌」の「虚空蔵菩薩」を安置している。清和天皇が廃針を納めた針堂がありお裁縫の神として着物関係の参拝者も多い。また知恵を貰う「十三参り」の寺としても有名である。参道の途中には左手に 全国の鉄道・電気関係者が参拝する電気・電波の守り神である「電電宮」がある。右手にはエジソンの電球の発明を讃える「エジソンの脾もある。 編纂し数字 理系の道を開いた功労者である。
7.たなか
七十五年の歴史を持つ川魚屋さん。代々嵐山の大井川で捕れる川魚を商いとして来ました。
現在は 鰻と鮎佃煮が店頭に並びます。昔の味を求めて全国からお客様が訪れます。
8.廣瀬
(ひろせ)
大正ロマンを感じさせる建物とインテリアのお店です。
地元出身の白髪のオーナーが凝った珈琲を出してくれます。
9.さがのや
駅前に七十年間
続く定食屋さん。現在の御主人はお婆さんの代から三代目です。
元々は嵯峨嵐山へ訪れる旅人の為に「嵯峨之家」の屋号で旅籠を営んでいました。
お薦めの品は「嵯峨野定食」です。
10.JR 嵯峨嵐山駅
(じぇいあーるさがあらしやまえき)
昭和初期に建てられた木造建築の旧駅舎に変わって建てられた新駅です。
奥嵯峨への観光客の利便性を考え北側にも出入り口を増設しています。観光シーズンには1日30万人の利用者があります。
11.法念院(一心寺)
(ほうねんいん(いっしんじ)
平清盛と戦った源氏の熊谷実篤の出家寺。
以前は天台宗の寺であつたが 明治時代に仏教の教えを広めるために浄土宗に改宗された。
天台の名残として五味五色「五色の旗」を掲
げている。
天台密教の「五正色」とは「 青」(しよぅしき)阿弥陀如来に降伏する色「黄」(おぅしき) 胎藏界の色「赤」(しゃくしき)金剛界の色「 白」(びゃくしき)大日如来の色「 黒」(こくじき) 諸仏を隠す色である。 徳川家 和子の菩提寺でもあり珍しい鳩の家紋の屋根瓦を見る事が出来る。
12.野宮神社
(ののみやじんじゃ)
(ののみやじんじや)と発音する。 伊勢の神宮に奉仕する内親王が潔斎のため居住された神社。
歴代の天皇家には未婚の皇女を三年の間身体を清めて神宮に奉仕させる「斎宮」(さいぐう)と言う皇室慣例があつた。
最初の斎宮は垂仁天皇の皇女倭姫(やまとひめ)と伝えられている。
入口の「黒木鳥居」と呼ばれる大鳥居は樹皮のついた櫟(くぬぎ)の木材で造られていて形式としては日本最古の鳥居である。
源氏物語を題材とした謡曲にも「黒木の鳥居 小柴垣 昔に変わらぬ有様なり」と謡われている。
境内には 学問の神「野宮大神」 縁結びの神「野宮大黒天」 子授 安産の神「白福稲荷」財運 芸能の神「白峰弁財天」が祀られている。
13.御髪神宮
(みかみじんじゃ)
御髪神宮(みかみじんじや)野宮神社から竹林の道を経て5分
「小倉池」西湖畔に祀られている。南北朝の貴族 藤原采女亮政之公(うねめのすけまさゆき)が祭神である。
神社の駒札に記載された説明文によれば亀山天皇の御代(1259ー1374)藤原基晴が宮中に宝物係として仕えていた時代 所管の宝物を紛失する事件があつた。基晴は責任を取って探索の為 諸国行脚の旅に出るが財政は貧窮し文永五年 三男の政之公が生計を立てるため髪結の職に仕えたのが起源とされている。
髪に携わる職の人々が全国から参拝に訪れている。境内にには「戦争とハゲを無くそう!」等 切実な絵馬もある。
14.愛宕念仏寺
(おたきねんぶつじ)
「おたぎ ねんぶつじ」と発音する。 天台宗比叡山派の末寺である。 京都の西北 愛宕山の麓にあるこの寺は もともと称徳天皇(764ー984)の開基により山城愛宕群に建立された。一度 衰退の期を迎えるが 平安の初期に天台宗の僧「 阿闍梨伝燈大法師千観内供(」918ー984)によって再興された。
「千観」は生涯念仏を唱えて暮らしたと伝えられていて別名「念仏上人」として人々から厚い信仰を集めた。 以後「愛宕念仏寺」と称される事になる。その後 幾多の変遷を経て(大正11年)愛宕山との信仰的な関係から当地「愛宕山道」に移築された。
正面入口の朱と緑のコントラストが美しい「仁王門」は江戸中期の建築。左右に力強く構える「仁王象」は仏師「快慶」の作風を連想させる鎌倉時代の作品である。入母屋造りの本堂には「厄除け千手観音」や鎌倉様式の「虚空菩薩象」が安置されている。寺内の西南にある「地蔵堂」には平安初期に造られた「火除地蔵菩薩象」が祀られて居て台所を預かる主婦層に人気がある。
特にユニークなのは先台住職(彫刻家)の発案により昭和56年から10年間 一般の参拝者自身の手によって彫られた千二百羅漢の像である。五十年の歳月を経て すっかり苔むし寺内に暖かく溶け込んでいる。
15.愛宕神社一之鳥居
(あたごじんじゃいちのとりい)
嵯峨の界隈の北端 愛宕街道の入口に有る鳥居である。街道には江戸末期から明治・大正にかけて愛宕詣出の門前町として町屋・茶店が建ち並んで居た。
「伊勢には七度 熊野に三度 愛宕さんへは月参り」と唱われたように参拝者で賑わつていた。以前は街道の横に嵐山から清瀧まで愛宕電気鉄道が走り 清瀧から愛宕山頂まではケーブルカーが運用されていた。現在でも「愛宕ケーブル会社」は存在する。
愛宕山の一の鳥居に因んで「 鳥居本一華表町」と呼ばれる町名もあり8月16日の送り火「鳥居形松明」を担当している。