京都の通りをデザインする                                                           公益社団法人京都デザイン協会

三条通りを中心とした新たな京都観光の姿

D.ai

東山地区(蹴上〜鴨川)

1.三条通の道路整備の成果
(さんじょうどおりのどうろせいびのせいか)

1997 年、京都地下鉄東西線開通。京津線の地上線の廃止と地下鉄開通にともなって、道路整備も計画された。特に東山三条〜蹴上間は無電柱化となり、車道は往復4車線、歩道も4M 幅員のインターロッキング舗装。景観的にすっきりすると道路に面した建物がそれぞれ整備し始め、景観に清潔感が現れてくる。また、歩道の整備は歩行者に安心と安全が確保されるので、歩く楽しみが増えたようだ。
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2.粟田神社
(あわたじんじゃ)

かって、東海道の出入口の関・粟田口に粟田神社があった。東海道の往来が増えるにしたがって、旅の安全を祈願する人々がふえ、旅立ちの神社として有名になった。写真の鳥居と参道は旧東海道に面していて、旅立つ前に祈願に立ち寄り易い立地だったことが解る。
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3.路地に密着した合槌稲荷大明神の参道
(ろじにみっちゃくしたあいづちいなりだいみょうじんのさんどう)

蹴上から西に三条通の広い歩道を歩んで行くと、町家に挟まれた3m ほどの幅員の路地に合槌大明神の鳥居が見える。その向こうは路地裏の民家があって、一体どこに本殿があるのかわからない。路地の突き当たりまで行って左右を見渡しても民家がしか見えない。勇気を出して左手の突き当たりまで進むと、やっと小振りの祠が現れた。民家の日常生活の路地と清められた参道とが共用されているという精神の不思議さが美しく、うれしく感じられる。

合槌稲荷大明神の由緒は刀匠三条小鍛冶宗近が信仰していた稲荷の祠堂と伝えられている。謡曲「小鍛冶」によれば、後一条天皇から守り刀の制作の勅命があり、稲荷神社に仕事の成功を祈願したところ、神狐が化けた若者が合槌を打ち、見事な刀を打ち上げ、「小狐丸」と名付けたと語られる。 宗近は天下五剣の「名物三日月宗近」(国宝) を打ち上げて有名であるばかりでなく、長刀鉾の長刀も娘の病気平癒を祈願して奉納されたものと伝わる。(立札参照)

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4.白川橋
(しらかわばし)

三条通りの白川にかかる橋で、柱及び欄干の形状がなかなかユニークである。柱はアールデコ調で照明部分と柱のバランスが良い。欄干下の透かしは一件何の変哲もない透かしブロック積みであるが、太陽の光に当たり出来た影が三条通りの歩道の上に落ち、面白いパターンを生み出しています。何回となくこの前を通り過ぎていましたが、このことに気づいたとき、思わず設計者の思いが伝わり微笑んでしまいました。「なるほどねー」と。
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5.明智光秀の首塚
(あけちみつひでのくびづか)

光秀の最後の首については、諸説があり真偽は不明ですが、死後(1582 年)250年経ってこの地に石碑が建ち、また数十年後の明治時代に戒名の石碑が建立されています。京都の庶民の新しい歴史観の積み重ねの伝統が面白く、愉しい。ついでに「光秀饅頭」をおいしくいただきました。
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6.大正時代の京津線路跡地
(たいしょうじだいのけいしんせんろあとち)

古川町通三条上がって一辻目を右に曲がると左の写真のような道路に斜めになった敷地に住宅が建っている。周辺の建物は全面道路に正面が向いているのに、不思議な風景である。恐らくかっての線路敷に沿って建てられたので、斜めの住居が向かい合っている。ここがかっての線路敷と推測できる。京津線の前身は京都電気軌道で、1912 年(大正元年)三条大橋から大津札の辻まで開通している。
当初の京都市内の起点駅は古川町(東山三条)で、古川町と蹴上間は現在の三条通の北側を走っていたことになる。
下の写真の黄色点線が路線敷であった。
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7.老舗の古川商店街
(しにせのふるかわしょうてんがい)

東山三条東入ル南側にある古川商店街。道幅も狭く、かなり古いアーケードの商店街だが、入ってみると親しみやすい店が並んでいて、地域の客が店の人と声を掛け合いながら買い物をしている。親しみとぬくもりのある風景で懐かしい。残念ながら、現在はシャッターで閉ざされた店も増えてきたが、再生の動きもあるようだ。

商店街北入口と交差する三条通はかつての東海道であり、京都の表玄関として交通の要点で、知恩院、八坂神社、清水寺への参道として人の往来が盛んでした。知恩院門前町として東は大津、山科、北は北白川、八瀬、鞍馬方面よりの来客があり、繁盛を極めました。􀀀主に食料品、日用必需品をあきない、明治以降も同様に繁盛を来しましたが、周辺居住地域の開発と共に次第に商圏は狭まれました。戦後、昭和25 年早々に古川町朝日会として発足し、昭和47 年には本格アーケードを建設、南北約300m の通りの中に約50 軒もの店舗が立ち並ぶ商店街となり、店舗数は減少しましたが現在に至っております(古川商店街HP より抜粋)

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8.京酢を代表する千鳥酢の蔵
(きょうすをだいひょうするちどりすのくら)

創業220 余年の歴史を誇る千鳥酢醸造元、村山造酢( 株) が古風な蔵を構えていましたが、 平成7 年阪神大震災で被害を受け、現在の建築に改築。ただし、旧蔵を近代建築ですっぽり囲んだ少し変わった構造。 内部は鉄骨の補強を加えた以外はすべて昔のまま。 長い年月の間に蔵に住み着いた無数の微生物が原料( 清酒) に作用して、旨みのもととなるアミノ酸類を生成しているからのようです。店構えはシンメトリーで、明治の頃の擬西洋建築の威厳持った様相ですが、両サイドの蔵風の表情が千鳥酢の歴史と伝統の深さ表していてなじみがよい。
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9.大将軍神社と東三條社
(だいしょうぐんとひがしさんじょうしゃ)

千鳥酢店の裏手に銀杏の大樹のある大将軍神社がある。名前からして強い意志と力を持った神様が祭られている気配がする。

由緒:「桓武天皇が平安京を造営した際に、大内裏鎮護のため四方四隅に祀られた大将軍神社のうちの東南隅の一つである。特に平安京東のこの地は、三条口(粟田口)の要地にあたり邪霊の侵入を防ぐ意を以て重要視されてきた。」(鳥居前にある京都市の立札より)
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大将軍神社の境内に石柱で囲われた東三條社が祀られている。境内の中に小さな別の境内が設置されたようで、大将軍神社とは別の意志を持った神社のようである。

由緒:平安時代の公卿・藤原兼家の東三條殿がこの辺にあった。屋敷は応仁の乱で焼失した。三條殿の鎮守として鎮座している。

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10.黒招き猫のだんのうさん( 檀王法林寺)
(くろまねきねこのだんのうさん だんのうほうりんじ)

門前の石柱の「だん王」というロゴが親しみ深い仮名文字で、庶民から親しまれていた法林寺の面影が現代にも通じるようです。境内には幼稚園、児童館が併設されていて、明るくて、にぎやかな空気が漂います。

檀王法林寺には、主夜神尊という神様が祀られている。主夜は守夜と転じて、夜を守る神として崇められ、盗難や火災などを防いでくれる神様です。夜を守る神と、闇夜に眼を光らせ黒猫が結びついたのでしょう。 1600 年代の團王上人は人徳も厚く町衆信者との交流を深められましたので、「だんのうさん」と呼ばれるようになった。(檀王法林寺HP より抜粋)

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11.皇居望拝の高山彦九郎像
(こうきょぼうはいのたかやまひこくろうぞう)

三条川端東南角、高山彦九郎の皇居望拝之趾が目に留まります。江戸後期、諸国を行脚して尊王論を説いた「寛政の三奇人」の一人。「 尊王運動の先駆者 」として幕末の志士たちに強い影響を与えた。最近は待ち合わせ場所として「ドゲザ前で6 時に!! 」とか。これでは彦九郎先生も堪ったものではありません。しかし、具象的なこの像は高山氏の功績を知らずとも、市民は親しみ深い人間味を感じているようです。

高山彦九郎は江戸後期の尊王の思想家。上野国(現在の群馬県太田市 )の郷士 18 歳に各地を遊歴して勤王論を説く。京では岩倉具選宅に寄留し、知遇を得て、光格天皇に拝謁。その感激を詠った歌は愛国百人一首にもとられており、名高い。また、吉田松陰をはじめ、幕末の志士と呼ばれる人々に影響を与えた人物である。
銅像は皇居に向かって座して望拝している姿で、初代は東郷平八郎が台座の揮毫をし、 1928 年に作られた。しかし、第2 次世界大戦中に金属類回収令で供出され、 現在の銅像は1961 年に彫刻家伊藤五百亀によって再建されたものである。 2 台目は若干西に移動し、初代の台座跡には「 高山彦九郎正之先生銅像趾跡記念碑」と歌碑が建てられている。
<ウィキペディアより抜粋>

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12.駅伝の碑
(えきでんのひ)

三条大橋東詰め北側に設置された石碑。大正6年に、3日間かけて京都から東京間で駅伝が行われた。これが駅伝のはじめとされる。これを契機に3年後の大正9年に箱根駅伝が誕生した。
このスタート地点の碑と同じものがゴール地点である東京・上野不忍池の博覧会正面玄関に建立されている。
「駅伝」は日本発祥であることから、まさしく記念すべきものである。しかし、石碑の台座や周りの整備に重厚さが欠けている。
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